
戦後の日本は、急速な経済の復興に伴い関西地方に深刻な電力不足をもたらし、大きな社会問題になっていました。しかし、日本産業の発展のためには膨大なエネルギーが必要で、当時の火力発電では変動する電力需要にすばやい出力調整ができず、それを補える大規模な水力発電の建設が必要でした。

昭和31年「世紀の大工事」といわれたくろよん建設は、関西電力により計画され、富山県と長野県の県境にそびえたつ北アルプスの向こう側に流れる黒部川に、高さ186mの巨大なダムを建設するというものでした。この大工事で、最も重要であったのが、長野県側から資材を運機するための大町トンネル(関電トンネル)の建設でした。

戦後の日本は、急速な経済の復興に伴い関西地方に深刻な電力不足をもたらし、大きな社会問題になっていました。しかし、日本産業の発展のためには膨大なエネルギーが必要で、当時の火力発電では変動する電力需要にすばやい出力調整ができず、それを補える大規模な水力発電の建設が必要でした。
昭和31年「世紀の大工事」といわれたくろよん建設は、関西電力により計画され、富山県と長野県の県境にそびえたつ北アルプスの向こう側に流れる黒部川に、高さ186mの巨大なダムを建設するというものでした。この大工事で、最も重要であったのが、長野県側から資材を運機するための大町トンネル(関電トンネル)の建設でした。
昭和31年8月からはじまった掘削工事は、昭和32年5月、破砕帯にぶつかり、掘削不可能となってしまいました。苦闘の末7ヶ月を要し、ついに破砕帯を突破したのです。大町トンネル(関電トンネル)開通後は、北大町駅付近から扇沢を経て大量の資材が運ばれ、実に7年の歳月と当時の金額にして513億円の工費、延べ1,000万人もの人手により昭和38年くろよんは完成しました。黒部ダムは、関西の電力不足を救い、日本の経済成長を助けました。「くろよん建設」のまさに前線基地となったのが、長野県大町市なのです。

くろよん建設で最も急がれた工事が、大町トンネル(現在の関電トンネル)の開通ですが、厳冬中も工事は休まず続けられ順調に進んでいました。ところが昭和32年5月、入口から約1,600mの地点で毎秒660ℓもの地下水と大量の土砂が吹き出しました。これは破砕帯と呼ばれる、岩盤の中で岩が細かく割れ、地下水を溜め込んだ軟弱な地層のことで、大量に流出した土砂と水により、7月には作業が不可能となってしまったのです。しかし、現場作業員は、決して諦めませんでした。持てる全ての知識と知恵・経験を結集し、距離わずか80メートルの破砕帯に対し、7ヶ月の苦闘の末に突破したのです。その模様は、木本正次さんの小説「黒部の太陽」をもとに、映画、舞台、テレビドラマでも描かれ現在に伝えられています。
くろよん建設で最も急がれた工事が、大町トンネル(現在の関電トンネル)の開通ですが、厳冬中も工事は休まず続けられ順調に進んでいました。ところが昭和32年5月、入口から約1,600mの地点で毎秒660ℓもの地下水と大量の土砂が吹き出しました。これは破砕帯と呼ばれる、岩盤の中で岩が細かく割れ、地下水を溜め込んだ軟弱な地層のことで、大量に流出した土砂と水により、7月には作業が不可能となってしまったのです。

しかし、現場作業員は、決して諦めませんでした。持てる全ての知識と知恵・経験を結集し、距離わずか80メートルの破砕帯に対し、7ヶ月の苦闘の末に突破したのです。その模様は、木本正次さんの小説「黒部の太陽」をもとに、映画、舞台、テレビドラマでも描かれ現在に伝えられています。

コンクリートの打設量一日8,653㎥という驚異的なスピードでダム建設は進みました。昭和35年(1960年)10月からは一部湛水が開始されました。


黒部ダムの建設地点は前人未到の黒部渓谷だったので、工法に比べて建設資材の量が少なくて済み、建設工期を短縮できるなどの理由からアーチ式ダムを採用しました。一部、重力式ダムを組み合わせた建設方法を考案し現在のウィングのついた独特の形の黒部ダムが昭和38(1963)年6月5日についに完成。様々な知恵と工夫が施された黒部ダムは、7年の歳月と513億円の工費、延1000万人の人員と171名の尊い犠牲により建設されました。黒部ダムは、関西の電力不足を救い、日本の経済成長を助けました。